2012年5月10日
by moriokaexpert
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2012年5月14日
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遠野
花巻から西に行ったところには日本のふるさとといってもいい遠野市があります。
遠野という地名は誰もが聞いたことがあるかもしれません。民俗学者の柳田國男によって著された「遠野物語拾遺」が有名です。
遠野の民話を編纂したもので日本の民俗学の発展に大いに貢献したと言われています。
遠野に行くとこの「遠野物語」で書かれているような光景がそのまま残っているような気がします。
かっぱが出たと言われているかっぱ淵は本当にかっぱが今にも出てきそうな雰囲気があります。観光地化しているとも思われるのですがそれでも自然はとても美しいです。
日本の原風景が残っていて心のふるさとに帰ってきたような気持ちがするんです(⌒-⌒)
2012年5月14日
by moriokaexpert
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記念館
宮沢賢治記念館は花巻市の胡四天王山の中腹にあります。
賢治はいろいろなことに関心を持っていて、活動内容もそのために多岐に渡っています。
記念館の展示はその賢治の活動をわかりやすく部門別に分類して展示してくれています。
賢治の愛した自然の事、信仰のこと、宇宙のこと。そして作品世界のイメージも体感することができます。
賢治の愛読者も、初心者の人にとっても楽しめる施設だと思います。
記念館の近くには「イーハトーブ館」という賢治に関する資料を収蔵している施設があったり、「宮沢賢治童話村」という施設もあります。子供でも楽しめるのが童話村ですね。ジョバンニや又三郎など賢治の童話の登場人物と遊んでいるような気分になれる施設となっています。
賢治の世界のイメージを再現しています。こちらもかなり楽しめますよ。
花巻から離れて盛岡の光源社もおすすめのスポットです。こちらは賢治の「注文の多い料理店」を出版した出版社の跡地です。
ここはとても静かで雰囲気のいい場所で素敵な喫茶室もあるので一度訪ねて見ることをおすすめします。
2012年5月14日
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花巻農業高等学校
賢治は花巻の農学校で先生として働いていた時期がありました(^○^)
現在も県立花巻農業高等学校として残っています。
この学校の敷地内には「賢治先生の家」と呼ばれる施設があります。この家は賢治が羅須地人協会という私塾を営んでいたこともある宮澤家の持ち家でした。
羅須地人協会というのは賢治が自分がお給料をもらって生活していることに悩んで退職したあとに開いた私塾です。
周囲の若い農民にここで農業のこと、科学のこと、エスペラントのことなどを教えていました。
警察にこの教育について聴取を受けたことをきっかけにしてこの活動は停止します。
賢治はのちから振り返ってこの時の活動のことは自分として苦い評価を下しているようです。
また、妹のトシが亡くなるまでの療養所としても使われていました。
賢治がなくなってからは他の人の手に渡っていたのですが農業高校の用地として買い取られ復元されて一般公開されています。
玄関のところにある黒板には「下ノ畑ニ 居リマス 賢治」と書かれています。これは賢治の筆跡を真似て弟が書いたものですが現在でもそれが消えないように農学校の生徒の手で上からなぞられています。
これをみるとなんだか本当に賢治先生が下の畑にいて農作業をしているんではないかという気がします。
教育熱心な賢治先生のことですからいまでも農学校の生徒を暖かく見守っているのでしょうo(〃^▽^〃)o
2012年5月14日
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盛岡第一高等学校
こちらは賢治が通っていた学校です。ちなみに石川啄木もこちらの出身で賢治より10歳先輩となっています(。╹◡╹。)
この高校の敷地内には白亜記念館という建物があるのですがここには石川啄木と宮沢賢治の成績簿が展示されていますw(;´▽`A“
またか!って感じですけど。まあ、ぜひぜひ見に行ってみてください^^
この盛岡第一高等学校っていう学校はさすが有名な文学者を二人も出しているだけあって地元では有名な名門校なんですって。野球も強いんです。
それで知っている人もいるかも知れませんが結構かわった学校なんです(^○^)
何が変わっているって、一番はなんといっても応援団ですね。
昔ながらのバンカラな応援団なんです。
団員は長髪に高下駄。校歌はピアノや吹奏楽が伴奏するのではなく大太鼓にあわせて。
今時こんな学校も珍しいですよね。
啄木や賢治のイメージとはかけ離れていますけど・・・(^○^)
2012年5月14日
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宮沢賢治
石川啄木についてはこのブログでもたくさん書いてきました。
続いての岩手や盛岡にゆかりのある文学者は宮沢賢治です。
啄木と並んで愛されています(。╹◡╹。)
宮沢賢治は現在の花巻市で産まれ、亡くなったのも花巻でした。岩手の自然を生涯愛し、それを自らの作品に描いていました。
エスペラントの思想に影響を受けたため自分でもそのような独自の言語を生み出していました。
岩手のことを賢治の言葉では「イーハトーブ」、または「イーハトーヴォ」と言います。イーハトーブが舞台となっている作品や、花巻がモデルとなっているポラーノの広場なども書いています。
賢治にゆかりのある場所がまだ岩手には残っていたり、賢治に関連した施設が作られていたりします(⌒-⌒)
2012年5月14日
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啄木記念館
啄木のことが好きなら絶対に行かなくてはいけないのが渋民村の啄木記念館です。盛岡からバスが出ています。バスで30分くらい揺られると到着します。
記念館はもちろんですが、啄木が幼少期を過ごしていた宝徳寺や先生として務めていた尋常小学校の木造校舎が近くにあります(^○^)
木造校舎の中で記念館の学芸員による啄木入門講座なども開かれているので研究のために参加したことがあります。
記念館自体は入館には大学生が320円。大人は450円となっています。
自筆原稿や啄木の国語のテストの答案、教員時代の履歴書なんかも保管されています。
本人が知ったら嫌だろうなあ・・・w
使っていた英和辞典やリードオルガンなんかも見ることができるんですよ。
2012年5月14日
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啄木の生涯
こんなダメ男くんの啄木ですが、それでも素敵な短歌を作って今尚愛されているのですから素晴らしいことではないでしょうか(⌒-⌒)
でも、生涯に発表した歌集は実はたったの一冊しかないんですよね。それが「一握の砂」です(*’-'*)
「悲しき玩具」は啄木の死後遺された人達によって出版されたものです。
肺結核のために27歳でこの世をさります。
悲しい歌を遺してなくなっていったひ弱な文学青年ですが今も盛岡の人たちに愛されています。
盛岡の駅に降り立って駅舎を眺めてみるととててもやさしいもじで「もりおか」と書かれています。これは啄木のノートから文字を拾い出して使っているのだそうです。
盛岡のとてもきれいな青い空を見上げながらこの文字を見ると胸が一杯になる思いがします。
「不来方の お城の草に寝ころびて 空に吸はれし十五の心」
2012年5月14日
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放浪~東京時代
函館に住んでいた時代もあります。その時には妻と子共は盛岡に遺したままでした。小学校の先生などをして過ごしていたのですがこの時期にある女性に恋をしたりなんかもあったようですね。奥さんも子どももありながら!!*゚Д゚)*゚д゚)*゚Д゚)
また、社会主義運動にも傾倒しはじめる時代です(ノ゚ο゚)ノ
東京に移り住み始めます。与謝野鉄幹ら文学のエライ人の世話になったり面識を得るようになっていくようです。
啄木の東京時代の生活のことは「ローマ字日記」という日記で詳しく知ることができます。これはすべてローマ字で書かれている日記です。
なぜローマ字で書かれているかというと、この日記の内容というのが浅草の芸者と遊んだ出来事を赤裸々に書いているので妻にばれないためなんだそうです((((;´・ω・`)))
しかし、これに対しては妻の節子は女学校を出ているのでローマ字くらい読めたのではないかと言われています((((;´・ω・`)))
また、とっても貧乏をしていた時代なので娼妓と遊ぶためにも友達から借金をして回ったり本を売ったりして生活をしていました((((;´・ω・`)))
その金を貸していた友だちというのが金田一京助先生ですね(・∀・;)
啄木は身体が弱かったというのもあるけどちょっとダメ男すぎなんじゃないかと思います^^;
それで
「働けど働けど 我が生活楽にならざりき じつと手を見る」
とか繊細な短歌を詠んでいますからね~。
2012年5月14日
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新婚時代
19歳で恋人の節子と結婚しますヽ(´▽`)/
この時の結婚写真は残っているのですが妻の節子が座っていて、啄木が隣にたっている写真です。
実はこの写真というのは最初は二人立って撮影しようとしていたようですが、啄木は節子より背が低かったのでカッコ悪いということで節子が座って撮影することになったのだそうです( ´;゚;∀;゚;)
結婚はしたものの、石川家の経済事情が思わしくなかったので病弱で仕事もない啄木が一家を養っていくことになります。盛岡で家族と同居しながら新婚生活を送っていきます。
この新婚生活を送った家は盛岡市内に残っています。武家屋敷のとても立派な大きな建物です(〃▽〃)
再び渋民村に戻り、小学校の教員として働き始めます。病弱のため徴兵には逃れました。文学者はこのような人が多いですね。
渋民尋常小学校があったところにはまだ学校があってそこに子供たちと啄木先生の像が立っています。いったい、どんな先生だったのか気になりますね(*’-'*)
2012年5月14日
by moriokaexpert
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石川啄木
わたしの大好きな歌人、石川啄木について紹介していきます。盛岡には啄木ゆかりの場所が沢山あるのでその場所についても紹介していけたらいいなあと思っています(。╹◡╹。)
啄木は明治19年にうまれて亡くなったのは明治45年。26歳でなくなっています。生まれたのは現在の盛岡市玉山区というところですが、啄木といったら渋民村のイメージが大きいかもしれませんね。
啄木のお父さんはお寺の住職をやっていたのですが渋民村の宝徳寺の住職に転任したことで引っ越すことになります。
幼い時代を渋民村で過ごし、小学校からは盛岡市内に住むようになります。
多感な十代の時代は啄木にとってとても重要な時代でした。
まず、中学の時に後に奥さんにもなる堀合節子と知り合います。また生涯の友人となる金田一京助とも中学からの付き合いです。
この金田一京助というのは名前を聞いたことがあるかもしれません。国語辞典の編纂で有名な言語学者です(。╹◡╹。)
学校で気の合う仲間と知りあってそこで同人誌をつくって短歌を発表したりしていたのですがある日カンニングが発覚してしまって退学処分となります。カンニング以外にも欠席が多かったり成績不振だったりしていたみたいですね。。(;´▽`A“
しかし、勘違いしないでくださいね!o(*’o'*)o啄木は中学に上がるまでは神童と呼ばれていたそうです。それが進学と共に勉強に対する熱意がなくなって・・・(ごにょごにょ)
でも、短歌の才能はこのあたりから開花していきます(ノ´▽`)ノ
処女詩集「あこがれ」を自費出版で発表します。
憧れの与謝野鉄幹、晶子夫妻とこの頃知りあって長い付き合いとなっていきます。
明星に作品を発表し注目を集めていきます。
しかし、この頃は就職にも失敗したり結核の発病など災難が重なった時期でもあります・・・(´・ω・`)